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アレルギーSTORY

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支えと心の安定

2015.02.08

投稿者
masumi koyama

Author masumi koyamaさん

大学進学の為に上京し、現在20歳の大学3年生。主治医の先生のもと、週に2回加熱時間を決めた一定量の鶏卵を食べることで経過観察中。
 
食物アレルギーのある人:本人(男性)
アレルゲン:鶏卵(加熱具合によって、症状変化)、さば
発症時期:0歳~

はじめに

私は食物アレルギー(鶏卵、さば)を持っており現在も経過観察中です。ですが食物アレルギーに対してあまり悲観的に捉えてはいません。それは私自身が小さいころに比べたらアレルゲン物質も減り、症状も大幅に緩和されたからかもしれません。食物アレルギーは命を落としかねないケースもたくさんあります。それでもどうか必要以上に敏感にならないでほしいです。アレルギーは乗り越えることも勿論重要ですが、うまく付き合うことも重要だと私は考えます。
私の20年間での出来事をお話させて頂きます。

「食べられない」が普通。喪失感より期待感。


私には、生まれた時から食物アレルギーの症状があり、いわゆる5大アレルゲンが摂取できない状況でした。そのため、幼少期は点滴で栄養を入れていた時期があったそうです。それでも小学校に入学するまでには「鶏卵」「乳製品」「そば」にまで減り、ある程度の食生活が送れるようになっていました。
小学校に入学すると「給食」が始まりますが、当然私は給食を食べることができず、弁当を家から持参していました。
 
もちろん、周りからは「何で弁当なの?」「給食食べないの?」そんな質問も度々ありました。
全く気にしなかったと言えば嘘になりますが、それほど周りは気になりませんでした。私にとっては物心付いた時から「食べられないもの」があった訳で、私にとってはそれが普通なのです。
自分が食べたことのないものに興味はありました。しかし、一度も口にしたことがない味ですから、単なる「憧れ」というレベルに過ぎず、「何か大事なものを失った」という喪失感はありませんでした。
 
私の場合は、学校からもらってくる献立表を基に、母が出来るだけ近い献立になるように弁当を作ってくれました。皆が食べている「給食」というものに憧れはあっても、それは決してネガティブなものではなく、いつか食べられる日が来るのかなという期待感すらありました。
通っていた小学校には、小学校の中に給食室があり、生徒全員分の給食を準備していました。小学校5年生のころに、給食室担当の方が変わり、その時をきっかけに、学校側から特別に除去食を提供して頂けることになりました。
 
そして私が食べられないもの以外は、皆と同じものを食べることが出来るようになりました。時には周りから「お前のものの方がうまそう」なんて言われることもありました。
年齢が上がるにつれて、体力もつき小学校を卒業する頃には、該当アレルゲンは、「鶏卵」だけになっていました(後々、「さば」でアレルギー反応が出るようになってしまいますが)。
周りと食べているものが違うという疎外感は正直言えばありました。しかし、その頃には、疎外感以上に食物アレルギーであることが自分の一種のアイデンティティの様なものになっていました。

「いじられる」ことは「無関心」よりずっと良い

 
タイトルを見て不快な思いをされた方がいらしたらすみません。もちろん、いじめを容認している訳ではありません。「いじめる」ことと「いじる」ことは違います。前者は許されることではありませんが、後者は時として愛情表現の一種になると私は感じます。
食物アレルギーをネタにいじってもらえることで「自分はかまわれている」と認識していたので、あまり苦はありませんでした。
 
中学生になると全体的に言動が荒っぽくなります。時にはふざけの延長で、「卵ぶつけるぞ」なんて言われたこともありました。でも気になりませんでした。なぜならそう言った人も本気で卵をぶつける気はないのですから。単純にふざけ半分で言っていただけです。そこで、本気で反応したら友達を遠ざけてしまいます。なので、こっちも冗談で対応してました(笑)。
 
ケースバイケースですが、そうやって食物アレルギーをネタにしていじってくれるだけ自分は幸せだなと思いました。自分の同級生には、周りから全く相手にされず、ずっと一人でいた人もいました。そんな中で自分は「かまってもらえるだけ幸せだな」と感じることすらありました。相手の言動に対してこちらがうまく対処出来れば、良い関係を築ける場合もあります。うまくアレルギーと付き合うことは時として「武器」になることだってある。それが中学で学んだことでした。

食物不可試験を初めて試す。意外と食べることができ大きく前進

 
高校3年の冬、県外で「食物不可試験を試してみたら」という誘いを主治医の先生から受けました。初めてのことだったので話を色々伺いました。その結果受けることにしました。
 
実際には怖くて仕方がありませんでした。
しかし、実施してみたら意外なことに、火が完全に通っていれば鶏卵一個を食べることが出来ました。それからというもの、少しずつ日常でも鶏卵を摂取するようになりました。
今は、主治医の先生のもと、徐々に生卵に近づけていこうと少しずつ摂取を続けています。だいぶ年齢も重ねたことで快復傾向が薄くはなってきました。しかし、それでも自分のペースで少しずつ治療を続けています。
 

コンタミの恐怖

 
比較的前向きな話をしてきましたが、私なりに苦労もありました。私の場合「鶏卵」アレルギーが特にひどく、コンタミ程度でもひどい症状が出ることがありました。私にとって一番辛かったのは「外食」でした。
 
以前某有名テーマパークに行きました。両親は昼食をどこで食べれば安全に食事が出来るのか熱心に探してくれました。見つけたお店でお寿司を食べました。「鶏卵」アレルギーであった私に症状は出るはずもありませんでした。
しかし、猛烈な吐き気に襲われ、早急にテーマパークを後にしました。
色々考えてみると原因として考えられたのは、刺身を切る包丁で卵を切っていたのではないか、いわゆるコンタミでした。こんなに熱心にお店を探してくれた両親に申し訳ない気持ちで一杯になりました。せっかくの家族でのテーマパークなのに、自分の身体1つで棒に振ってしまった。両親から「ごめんね」と言われた時にはやるせなくて仕方がありませんでした。
 
私にとって、コンタミは想像以上に恐怖でした。両親は、私が食べられるものなら金銭的・距離的に無理をしてでも出来るだけ食べさせてあげたいと言ってくれていました。外食も連れて行ってあげたいと仕切りに言ってくれていました。
しかし、本来なら食べられるはずのものも「コンタミ」が恐ろしくて食べることが出来ませんでした。気持ちが不安になると、自然と身体にも反応が出てしまい、「鶏卵」を摂取したかどうかも分からないのに、なんとなく具合が悪くなってしまいます。その為、「よし今日は外食にしよう、何食べたい? 好きなもの何でも言ってごらん」と言われたら、私は迷うことなく「外食は嫌だ」と答えていた時期もありました。すると家族全員が私に合わせてくれて、外食を断念することになります。私のせいで、家族も外食を断念してしまうことが私にとってはとても辛かったです。
 

支えと心の安定

 
両親は自分が食物アレルギーであることに関して、嫌な顔1つ見せずに支えてくれました。毎日の弁当作りや、自分の治療計画を考えてくれたり、学校や部活で遠征の機会があれば、事前に足を運び宿の人と打ち合わせたり。一つひとつ自分が気づかないところでも支えてくれていたのだと思います。
 
そういった支えがあったこともですが、何より母が、そして父も食物アレルギーに対して悲観的な態度をとっていなかったことは、私の心の安定に繋がっていたのではないかと思います。その都度、両親に感謝の気持ちは伝えていましたが、この文書を書きながらまた改めて感謝の気持ちを伝えなくてはと今思っています。
 
食物アレルギーには、適切な対応が必要です。それでも必要以上に過敏になりすぎるのは本人にとっても、ご家族の方にとっても良くないのではと私は考えます。そうは言っても、重度の食物アレルギーを持っていらっしゃる方がいるのも知っております。私のストーリーがどのような方にどのような影響を与えるのか想像は尽きませんが、少しでも多くの方にポジティブな効果があれば幸いです。
 
長文失礼いたしました。読んで頂きありがとうございました。

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