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アレルギーSTORY

幼少期からの喘息、そして子供ができてからの食物アレルギーとの付き合い

2021.02.16

投稿者
鼻めがね

Author 鼻めがねさん

大阪府の男性会社員、妻と中高生の息子2人の4人家族。次男は乳の負荷試験をおこなっています。自身は6歳から小児喘息を発症し、アトピーとお付き合い中。頭皮が荒れると薄毛になるのが悲しい。

6歳から喘息があり


わが家は私と妻、高校生と中学生の息子、4人全員がアレルギー持ちの家族です。
私が小学生だった1980年代はまだアレルギーの認知度が低く、除去=偏食という風潮でした。
中学生になって初めておこなったアレルギー検査では、ハウスダストも陽性であることがわかりました。
6歳から付き合いが始まった小児喘息で何度も入院したり、学校を休んだりしていました。小学校教諭だった母は、私が体調を崩したからといって毎回休暇を取るわけにもいかず、 自分の存在が母に負担をかけているのかもしれないと、小さな引っ掛かりを感じたことを憶えています。
大学に通うために選んだ神戸の下宿は、家賃は張りましたが、ダニがいなそうな鉄筋の建物を選びました。おかげで年明けの阪神大震災では倒壊を免れました。
就職して出会ったのは白くピカピカした笑顔をした、のちの妻でした。でも彼女も高校生の時までアトピーで象皮化した顔に悩まされていたそうです。調子さえ良くなればそれまでのスキンケアにより、健康な肌になった一人です。アトピーの耐え難い痒み、横になれない喘息の息苦しさの経験は二人に共通していたので、調子の悪いときにさほど説明しなくても、その辛さを理解しあうことができました。

子供の食物アレルギーと向き合うなかで


結婚して授かった子供たちは、2人ともアレルギーがあり、上の子は肌が繊細で、いつも小さなミトンをつけていましたが、非ステロイド治療がこじれ2歳で入院しました。浸出液が出てもステロイドには頼らない方針のクリニックから、セカンドオピニオンを求めて受診した総合病院では、すぐに入院してステロイド治療が必要との判断で、一気に皮膚バリアを取り戻す方針でした。その方針を選択してからは比較的当人のストレスも減ったようです。
慣れない子育てと共働きの忙しさから精神的時間的な余裕がなく、子どもに少し厳しく接してしまったと思うようなこともあり、その影響もあってか症状が良くなっていないように感じることもありました。そのため夫婦で2週間ほど仕事を休み、高原の静養地でリセットしようとしたことあります。下の子は反応が強く、正面の友達がこぼした牛乳の見えない飛沫でアナフィラキシーを起こし救急搬送されました。スポーツ遠征先でホテル朝食のコンタミによって入院したこともあります。
外食は寿司か焼肉が多く、小麦の代わりにジャガイモ、トマト缶とウスターソースでデミグラスソースはお馴染みのメニューで、そうやって過ごしているうちに、専門医の指導のもと地道な負荷試験をはじめ、小麦、次は卵と少しずつ克服できつつあります。食事が不安な海外旅行はまだ実現していませんが、子供たちが独立するまでには出かけたいという夢があります。「アレルギーチェッカー」が海外のスーパーでもバンバン使えれば安心ですね。

いままで良い思い出ばかり、とはさすがにいえませんが、今ではその一つ一つが子供たちといっぱい時間を共有した記録です。お風呂上がりの息子達2人に薬を塗るのが日課だったので、普通の親子の数倍はスキンシップがあったのではないでしょうか。それぞれ中学生・高校生になった男の子ですが、いまだに母親に懐いて離れません。父親である私との関係も、自身の30年前と比較するとずいぶん距離が近いように思います。
アレルギーは私の個性の一つであり続けています。周囲からは同情されることもありましたが、アレルギーが原因で何かを損したと感じたことはなく、背が高いとか低いとか、足が遅いとか勉強が苦手とか、そういった種類の違いだと思っています。辛かったり困ったりすることはありますが、得たものも少なくありません。
今でもアレルギー&アトピーは続いていますし、病気には罹りやすいほうです。ですが付き合い方がわかればなんとでもなるので、一病息災、まあまあ元気に暮らしています。だから40年前の母には「治してあげなきゃ」と思いつめる必要はないよって伝えたいです。体に良いことをできる範囲でって。

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